鬱のようなものと共に生きる28歳会社員の記録

28歳、男。東京暮らし。会社員。忙しくも楽しく働いていたら、いつの間にかうつのようなものにかかってしまいました。会社には伝えずに薬とカウンセリングを3ヶ月ほど続けています。なにか書く気力もなかったのですが、なにか書かなければならない気がしたのではじめました。よろしくお願いします。

お久しぶりです

もう11ヶ月も更新が途絶えていました。

 

その間にあったことを簡単に。

 

一度強引に自分で断薬をしてみたものの、やはり上手くいかず、もう一生このままなのだろうかと打ちひしがれる日々でした。

 

しかし春頃から少しずつ少しずつ減薬をしていき五月には完全に断薬をしました。

二ヶ月くらいは断薬の影響でいわゆるシャンビリと呼ばれる現象に悩まされ、いつこの苦しみが終わるのだろう、いっそ薬を再開した方が楽だ、と思うことも多かったです。

 

ただ、そんな時に僕の頭の中には「なにくそ」という気持ちが湧いていました。ここで折れてなるものか、そう思えてひたすらに耐え忍んでいたところ、気がついた頃にはシャンビリはどこかへ行っていました。

 

今ではもう半年ほど薬を一切飲まずに暮らしています。二年と二ヶ月の治療の中で、こんな時が来るとは全く思っていませんでした。ただただ苦しく、苦しいということもなかなか理解されず、それでも優しくしてくれる人や応援してくれる人はいて、励まされたり、やっぱりダメだったり。途方も無い浮き沈みを繰り返しながらなんとかここまでたどり着けました。

 

二度とあの暮らしに戻ることがないよう、頑張りすぎず、かといって楽もせず、生きていきたいと思います。

 

恥ずかしいことにすでに忘れかけていることも多いのですが、今となっては得がたい経験だったと思います。

 

これまでこのブログを覗いてコメントしてくれた方、コメントはせずとも応援してくれた方、本当にありがとうございました。ここで吐き出したことやみなさんに見てもらったことは僕にとって間違いなくいい作用になりました。

 

また何かの折に更新しようと思いますが今回はひとまずこれで。

うんざりしてしまう

今日は今年で最も悲しみ、怒り、うんざりしてしまうことがありました。

良くも悪くも感情の上下の幅があまりないのですが、久しぶりにとても悲しい気持ちになってしまいました。

本当に信頼しあえる相手は両手で足りるくらいでいいはず。

相手を変えることはとても難しいので自分が変わろう。

全ての人と分かり合えると思ってはいけない。

ただ、わかり合いたいと思った相手から歓迎されないことはとても悲しく、寂しい。

薬を減らしています

三日前からジェイゾロフトを50ミリまで下げています。

以前のような離脱症状はなく順調に減らせていると思います。

根気強く、というくらい気張らずとも、気長にやっていきたいものです。

一つすっきりとしたこと

今日、一つもやもやとしていたものがちょっとすっきりしました。

どこかで前の部署に戻らねばという気持ちがあったのですが、別によくね、誰も求めてなくね、と思ったら、寂しくもありましたが、だいぶ気が楽になりました。

ひょっとしたら自分はあそこにいたくないのかもしれない。

一度ゼロから考え直すのも悪いことではないなと自分で思えました。

とにかく今やれることを精一杯、近くにいる人のためになることから始めます。

嫌いな人との付き合い方

職場復帰をして徐々に慣れてくると、

あ、この人嫌いだ。

というのがまた増えてきました。社会に出れば当然なのですが、どうしてもイライラしてしまいます。しかもよりによって、こういってはなんですが、そんなに重要ではないけれど、毎月会わなければならない人に多いです。

内心でイライラするだけならいいのですが、以前よりある意味自己中心的になったので、あからさまに自分の中に敵意が芽生えるのを感じます。

とはいえ仕事である以上付き合わねばならない相手になるので、ちょっと悩んで、
「別に嫌われてもいいや。嫌われてもそれは相手の主観だから自分にはどうしようもない。最低限必要なことだけやっとこう」
と考えるようにしました。

なにも全ての人に対して心から誠実である必要はないと気づいたこの数ヶ月です。

人生はもっと気楽でいい。

減薬開始

本日5月2日から先生と相談の上減薬をスタートしました。

ジェイゾロフト100mgから75mgへ。まずは三週間やってみます。

薬が切れた時の離脱症状、いわゆるシャンビリというものを体験しているので気長に減らしていきたいと思います。

自分の場合はシャンビリもですが、なにより悪夢がひどいので質のよい睡眠取れる日を夢見て頑張ります。

幸不幸は人に決められるものではない

当たり前なのだけれど知らない間に人間が陥ってしまうことの一つは、「あくまで自分の感情や幸不幸は自分で判断するものである」と考えています。

昔から広い人付き合いが好きではないという性格だと思っていたのですが、今日は改めてそれを実感し、かつ、なぜそう思っているかに気づきました。

人間生きていれば社交性が求められる部分が多々あり、今日は久しぶりにそうした場面、いわゆる社会人的お付き合いの場でした。

そうしたまだ人となりを知らないあいだに行われるコミュニケーションがいかに先入観で話すことの多いことか。何歳まで独身だから寂しい、だとか、お酒を飲むから元気のいいやつ、だとか、太っているから他もだらしない人、だとか、スーツを着ていないから常識のないやつだ、だとか、安易なa=bが溢れかえっていて、実際はそんなことはないし、自分がそう判断されたら腹がたつのに人にはそうしてしまうことが多いのです。

そういう決めつけに出会うたび、人のことでも自分のことでもなんとなく嫌な気持ちになっていたのですが、はっと気づきました。

ああ、自分が広い人付き合いが好きじゃないのは、理解されるまでの過程があまりに面倒だからだ、と。

面倒で面倒で仕方がないのです。

わざわざ、自分はこう見えるけど実はこういう人間なんですと説明するのもおかしな話ですし、それが伝わることもなかなかない。

なので解決策として、変に誤解されるような行動を取ることを、正しく言えば、分かりやすい印象を与えるようにしようと思いました。

誤解されることが面倒で仕方がないなら、誤解のないような印象づけにしてしまえばいいのだと。

こういうことまで気を配らなければならない社会が面倒だし、そんなことを考えなければならない生き方をしている自分も面倒なやつだなと思います。

うまく書けていませんがそんな決心をした一日でした。

目先の目標

一度病気になってからというもの、とにかくその日をこなすことが精一杯で自分を振り返る作業が全く出来ていませんでした。

しかし今は具体的にこれをやってみよう、いついつまでにこれを達成しようといった目標を考えることが出来ています。

一度決めてしまえば楽なもので、とにかくそのためになにをすべきかを判断し、忠実にこなすのみなので、余計なというか途方も無い堂々巡りの考えをせずに済みます。

ただひたすらになすべきことをなす。

考えようによっては人生はどこまでもシンプルです。