鬱のようなものと共に生きる28歳会社員の記録

28歳、男。東京暮らし。会社員。忙しくも楽しく働いていたら、いつの間にかうつのようなものにかかってしまいました。会社には伝えずに薬とカウンセリングを3ヶ月ほど続けています。なにか書く気力もなかったのですが、なにか書かなければならない気がしたのではじめました。よろしくお願いします。

生きるとはどういうことか

なんでしょうか?

 

どうせ生きていくのであれば楽しく生きたい、と昔から考えていました。

そして自分にとっての「楽しい」とは「しんどいながらも踏ん張って目標に到達すること」でした。

「しんどいこと」は自分の限界値を知る作業でもあると思っていました。

ライ麦畑でつかまえて』がとても好きなのですが、この作品の中に、「学ぶということは自分の脳のサイズを知ることだ」というニュアンスのセリフがあり、この言葉を知ってから自分の中での「学び」であったり「修練」の定義が決まったように思います。

 

これは人付き合いにも言えることで、今となっては甘いのですが、「たとえ人間関係で苦しい場面があっても人は真剣に向き合えば損得抜きに動いてくれるはず」というのが自分の根本にありました。そうあって欲しい、という勝手な理想の押し付けであることは薄々気づいていながらも、なかなか諦めきれずにいたわけです。

 

そしてこの数年で、若輩者ではありますが、自分の体力の限界値、自分の身のこなし方での社会との折り合いの限界値を知ることができたように思います。

 

通常であれば、壊れてしまう前に意識的にしろ無意識的にしろ人は学んでいくものなのでしょうが、自分の場合はその点があまりにも下手くそだったのだなと思います。

 

学習したにしろなかなか性格は変えられないのですが、少し極端な部分を減らして折り合いをつけることにしました。

 

その結論は、

「目標を最低に保つ」

「ほとんどの人に期待しない」

というものです。

 

字面だけを見るととても悲しいのですが、おそらく自分はこういう向き合い方でしか心を保てないと思います。

 

自分が思っていた以上に人は醜い生き物です。

もちろん素晴らしい部分もたくさんあることも知っています。

 

ただ、自らにも社会にも期待するには理想が高すぎたのです。

 

自分にとっての生きるとは理想を掲げ過ぎないことです。